3.サラたま事件(その2)
〜あなたの出身はどこですか〜


マスコミが水俣病事件になぜ及び腰かと言う話の前に、知っておいて頂きたいことがあります。
この問題に対する水俣市民の反応です。
そもそも、なぜそんな事を問題にするのかという意見もあるかもしれません。
何も市議会の一般質問で議題にするようなことじゃないだろうと。
私といえば、このニュースを聞いたとき、怒りと諦めが同時に湧きあがったクチなんですがね。

たとえばあなたはこれまで「どこ出身なの?」という質問を数え切れないくらいされたことがあると思います。
私は福岡県の北九州市、もひとつ言えば炭坑労働者で知られた若松区の生まれなものですから、出身を聞かれるたびに「北九州、九州の」と答えていました。面白いもので、北九州(通称北九)の人間は、決して「出身は福岡」とは言いません。ですから「出身は北九だよ」と答えて相手が「ああ、福岡の人」などと言おうものなら「違う、北九州市」と必ず訂正し、ついでに「無法松の一生の若松」などとどうでも良いことを言い添えてしまったりします。
これには福岡市へのライバル意識があるんでしょうけれど、私くらいの年では、北九州市が石炭と鉄鋼(新日鉄ですね)で栄えた時代はまったく知らず、ひたすら鉄鋼不況で鉄の町ならぬ灰色の町などといわれ、町を歩けば失業者にあたるというような時代しか知らない世代でもやはり「出身は北九」と答えてしまうんですね。
「出身はどこ」と聞かれて答えるときのその言葉には、程度の差こそあれ、その人の持っている郷土自慢のようなものが滲んでいるのではないでしょうか。
そういう意味では水俣と言うところはきわめて不幸でした。
チッソが斜陽になり(ちなみにチッソは今も水俣市を支える大企業です。倒産したものだと思っている方が多いもので、念のため)、水俣から関西・関東方面へ職を求めて移り住んだ人も多いのですが、彼ら彼女らのほとんどが就職活動のときも、結婚のときも出身地を明らかにしませんでした。
昔の話ではありませんよ。今だって少なくはなりましたが、珍しい話ではありません。子どもが修学旅行に行けば、旅館の前にぶら下がっている「水俣高校ご一行様」という看板のおかげで他校の生徒から「水俣病はあっちいけ」などといじめられて喧嘩になったという話だって過去のものになったわけではありません。
そう言う話は知ってるよ、という方、も少し次の話も聞いてください。
そういうことは何も水俣対全国という話ではないのです。
今がちょうど盛りの高校野球では、熊本県大会の試合中に対戦校から「水俣病」とやじられることもありました。
そして、何より問題だったのは、そうした構造が水俣の中にも持ちこまれ拡大していったことです。
チッソ城下町水俣では、チッソの正社員の社宅がある陣内・白浜地区が最高級住宅街であり、そこに居を構えることが今も羨望の対象となっています。
対して、水俣病の激震地となった湯堂、茂堂、梅戸それに今回問題となった袋地区は、そこに住んでいるというだけで差別を受けたこともあるのです。
水俣という狭い地域の中で、水俣病患者は水俣市民ではないと長く言われつづけました。ですから今も「市民と患者の融和」という言い方をしたりします。
「水俣市民」でないものがいるために、我々は肩身の狭い思いをする。
患者は出て行けという声の中、「市民」の間から沸きあがったのが、「病名変更運動」でした。
水俣病と言う名前だから我々が肩身の狭い思いをする。
名前さえ変えれば、出身地を隠さなくてもいい。

この運動は一時期かなりの盛り上がりを見せました。
おそらく、病名変更の話だけ聞けば「そりゃ苦労しているんだろうなあ」と納得する人も少なくないかもしれませんが、その背景には、患者は出て行け、水俣市を守れと言う激越な圧力があったわけです。

しかしこの動きも、未認定患者への補償問題の決着と共に(よく水俣病問題の解決などという言い方をしますが、もちろん間違いです)ようやく沈静化し、水俣と言う名前を恥ずかしがらずに胸を張って言おうではないかという状況になってきたのです(もちろんこれまでも水俣の教育委員会とか何とかそう言ってましたがまともに耳を貸す人間はいなかったということです)。
そこへ、この「事件」です。

あなたの出身はどこですか?


(この項続く)